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アカシアの花

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野山にアカシアのフィーバーが始まった。 この木もやはり明治時代に持ち込まれた外来種で、成長が早く、繁殖力が強く、浅く広く根を張るので、主に土壌流失防止や手っ取り早い緑化に利用された。 道民をはじめ多くの人たちがそう呼んではばからないこのアカシアという名は、周知のように正しい名前ではない。本物のアカシアは全く別の種類で、正しくはマメ科のハリエンジュ。本物とは違うという意味で、またの名をニセアカシア。そんなことはみんな知っているくせに、いつまでたってもアカシアの呼び名は変わらない。 マメ科の倣いで種は鞘の中に並んでできるが、その種は情けないほどペッタンコで、豆としてできそこないのように見える。ところがところが、その薄っぺらさこそが、風によってより遠くまで拡散する戦略としての成功をもたらし、高い発芽率や、根さえ残っていれば切られても再生する生命力、それに全身に鋭いトゲを纏うというパーフェクトなインベーダーとして、この100年で北海道は言うに及ばず、東北や信州をはじめ南方を除くほぼ全国に拡散してしまった。数年前、このアカシアの脅威に気付いた環境庁は駆逐すべき外来種に指定した。確かにこ

カッコウの声

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今月初めに白い花のことを書いてからほぼ2週間、ニセアカシアの花房が膨らんで、あと2〜3日で野山に白い爆発が始まります。同時に、見上げる札幌岳の西の肩に最後まで残っている残雪が、今にも消えようとしています。例年であれば、アカシアの花期の最盛期に、がっちりバトンタッチして消えていく名残の雪が、今年は珍しく今にも力尽きそうです。珍しいといえば、何年ぶりでしょう、カッコウが戻って来ました。昭和50年代後半までは、札幌の市街地でも初夏を迎える頃になるとあたりまえのようにあの鳴き声が聞こえていて、札幌市のシンボルにされるくらい馴染み深い鳥だったのです。 高度成長期が終わる頃、ふと気付くとカッコウの声が札幌から消えていました。<鳥屋>さんたちは慌てていろいろとその訳を探りましたが、夏場を過ごす北海道に原因があるのではなく、越冬地であるフィリピンやインドシナでの大規模な森林破壊こそが元凶だということになりました。 数年前からは「カッコウの声を聞いたらお知らせ下さい」と、ラジオ局などが呼びかけるようになり、静かに忍び寄るかのような<異変>にみんなが気付いたのです。カッコウの声こそ聞こえなくなったものの、

どぜうの足

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「馬脚を現す」という言葉があります。野田さんは最初からそのつもりでした。全ての責任は次の世代に押し付けて<原子力>をまだまだ使い続けるのか。Fukushimaの総括はやらずに誤魔化すのか。この国の後頭部に腫瘍のように蔓延った原子力ムラと行政の黒いシミはどうするのか。諸悪の根源<総括原価方式>には手を付けないのか。経営破綻しているのに暖かい座布団から下りようとしない東電はそのままで良いのか。 「そんなことのんびり考えてるヒマはありませんでした。頭の中はこれまで誰もやらなかった増税で名を残すことでいっぱいだったんです。それに、誰も正面きって文句の言い難い良い言葉を思いついたのです。 「国民生活のため」、これです。理由なんか必要ありません。「子供のため」「家族のため」「地域住民のため」「国民のため」、この問答無用の路線で押し切りましょう。 「国民の生活を何としても守らなければなりません。万一停電にでもなったら大変です。」よし、これでOK。これで大飯原発の再稼働に道筋がつきました。地盤も看板もカバンも無い。それでもコンプレックスをバネにして政治家目指して泥から這い出たどじょう君。松下政経塾では

続々 となりのオヤジ

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今回の痕跡の50Mほど手前の電柱に「熊出没注意」の看板が縛り付けられている。さらに100M手前にも木杭に打ち付けられたものが1枚。そして工房を通り越した先にも1枚。よく見ると取り付けた日付が書いてあり、それぞれ、1年前、3年前、5年前となっている。 目撃通報のあった日に警察が取り付けるのだが、仕事はそこで終り、何年経とうと撤去されることがない。 クルマを止めてまで日付を確かめる人などいないから、「わっ、マジッ!」「やばっ、またあったョ」「このへん熊の巣じゃん」・・となる。 これって、風評の元凶を警察が作ってません?まあ、それはそれで逆の効果もあって、羆の存在そのものの恐怖や緊張感が働いて、入山者の絶対数を抑える役に立っている。毎年ニュースになる山菜採りや渓流釣りでのトラブルは、その時々に道民に対して警戒を呼びかけることになり、まあ、いわゆる歯止めになってる訳で、北海道の自然環境にとってそれも悪くはないわけで・・。知床国立公園では駆除や排斥から共生思想にシフトして、空砲やゴム弾による排除、やむを得ない場合の捕獲と奥山放獣など、北米での例に学び先進の試行を続けている。ただ、それは

続 となりのオヤジ

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昨日の写真の黒いウンコあとの道路左側。道端のフキ原にたたみ3畳ほどの円座ができている。昨日の朝、ここにはでっかいオヤジが座り込み、寝そべり、手近なフキを口に運んでモグモグやりながら、満ち足りた時間を過ごしていたのだ。 その姿を想像すると、こちらも心の端っこが柔らかくほぐされるような気持ちになる。だが、同時にこういう現場を恐怖や災いの対象としてしか見られない人たちも多くいる。毎年のこと。こういう痕跡に気付いたり、クマそのものを目撃してしまった人は、その緊張や恐怖を抑えられずにまず110番して警察を呼ぶ。暫くしてミニパトに乗った警官が到着。事情を聞いたあと、もし近くに人家でもあれば本庁に無線を入れて猟友会に出動要請。大勢でその痕跡をたどり、山狩りの末に銃で命を奪うことで一件落着。全ては相手の事がよく分からないのが原因だ。「放っておくと何をするか分からない」「トラブルが起きてからでは遅い」。それが自分を上回る相手や集団、あるいは国家の場合、自らの安全を守るためという目的を掲げながら、実は不可解ゆえに増幅する恐怖心から逃れるために武器を手にする。 領土拡張や資源奪取が直接の目的でない争いごと