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生き抜く力

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大寒を迎え、これから節分にかけての2週間のうちに寒さは底に達し、積雪深も平年値は最高を記録します。 ここ2〜3日続いた960hPaという台風並みの低気圧が、オホーツク沿岸や道東にドカ雪をもたらしました。 とはいえ、札幌近辺だけは例年とそれほど変わらず、今のところ比較的楽な冬を過ごしています。いつもの冬の時間が静かに過ぎる工房周辺ではありますが、音の無い雪原には生き物たちが命の痕跡を縦横に残しています。 画像は50cmもの雪の下のネズミを狙って、キタキツネが掘った穴の跡です。雪の下に感じたネズミの気配に確信を持って、一心不乱に掘り込んだようすが周囲の雪の散らばりようで判ります。首尾よく捕らえて生きる力にできたでしょうか。 エゾシカたちが吹雪を避けて夜を過ごす道路の向こう側の沢地には、何本ものシカ道が出来ているようですし、時々は暗闇に立ち尽くして寒空に哀切な声をこだまさせます。 冬場はあまり活動的でないエゾタヌキの足跡も、好天の朝にはたまに見かけます。脚が短いせいでおなかの跡を柔らかい雪に残しながら、凛とした意思を感じさせるキツネの足跡とは対照的に、あちこち方向を変えつつ遠くの巣穴を目指し

始めた時、終える時 ⑵

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「やいや、大したイイんだワこれ。畑に埋けた野菜取りに行くのに、たんびに雪掘って道つけなくていいもの。」 実家がタマネギ農家という知人に、『よかったら使ってみて』と渡した試作段階のスノーシューを、本人ではなくバアちゃんが愛用してくれていた。 当時のスノーシューのイメージは、アウトドア雑誌が取り上げたように雪上ハイキングのニューアイテムとしてファッション性を前面に押したものだったが、思ってもみないバアちゃんの一言に生活道具としての本来の姿が含まれていた。翌1996年に製品として販売に踏み切ったときには、米国のタブスとアトラスの2社がシェアのほとんどを占め、TSLもMSRもまだ登場しておらず、価格帯も2〜4万円と普及を考えるとやや高価に過ぎた。 とはいえ、初めのうちは作るほどに赤字が増えるほどだったし、材料の選定にも数年間は試行錯誤が続いた。予期せぬデッキ素材の破断でリコールのような状況もあったし、手作業の行程が多くて生産性も悪かった。 それでも、カメラマン・測量士・電力会社・林業関係者など仕事で使ってくれるユーザーが少しづつ増え、山岳救助隊での活用や長野五輪の撮影機材設置のように、作り手と

始めた時、終える時 ⑴

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諸般の事情からスノーシューの製作を終えることにした。想い返せば、現在につながるアルミフレームのスノーシューがこの国に上陸したのは1990年代初め頃だったと思う。 それまで主にアメリカ東北部で、蒸し曲げたアッシュ材のフレームに革ひもを張った、スノーラケットとも呼ばれるトラディショナルなスノーシューを作っていたTubbs社が、木ではなくアルミ合金を使ったフレームで、量産タイプのスノーシューを世に送り出したのは1970年代。 我が国においても、民具としてよく知られるカンジキが各地の多雪域で発達し、その中から比較的コンパクトで丈夫な立山地方の通称<芦峅(あしくら)>が登山用具として利用され、やがてほぼ同じサイズと機能のアルミカンジキが登場した。 北海道の冬山ではスキーが多用されることから、ブレーカブルクラストなどの条件にアイゼンと組んで使われることはあっても、終止カンジキを使って行動するのは測量や伐採等で山仕事をする人達に限られていた。北米で始まった新素材のスノーシューは、徐々に改良されるビンディングによるホールド性能の向上と足の自由な動き、それに小型化による軽快さで、それまでその道具が持っ

医者はヒトなり

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医者もまた人なり。 患者として医者に接する時、ともすれば自分よりも程度の良い人間と位置付けがちだが、いやいや、それはこちらの勝手な思い込みに過ぎないと、あらためて医者自身が教えてくれた。そもそもは先月半ばに始まった。普段は使っていない眼鏡が視力に合っているのか不安だったし、右眼の視界の下の方に小さい影があるのも気になって、自宅の近くの眼科医を訪ねることにした。幾つかの検査をして、眼鏡の度数は問題ないこと、右眼の影は眼底出血なのでレーザーで毛細管を焼く手術が必要という診断が出る。そして数日後に、網膜を広げる処置をしてレーザーによる網膜光凝固術を受けた。 しばらく休んだ後、出血を押さえる薬を処方され、それが無くなる2週間後に来るように言われて自宅に戻る。 そこまでは良かった。だが、眼があくようになると視界の下半分近くが見えない。時計の針で表すと3時45分の位置から下の部分が黒く、中心付近が歪んで見える。TVで歌う美少女の顔が、まるでムンクの叫びかゾンビのようだ。 それでも、当日は仕方ないものと思って2週間という時間を待つことにした。しかし、3日たち5日たっても変化の無い状況に不安は増幅し、

鹿肉パーリー

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この時期としては久しぶりに、ほんとに久しぶりに仲間が集まりました。年の瀬を控えて、それぞれが何かを抱えて忙しないことでしょうが、「Mさんが鹿の足を1本持って来る」との情報に、予定を変えてまで大人と子供14人が山の工房へ来てくれました。充分に塩を擦り込んだ柔らかい肉は、焼けるはしから削ぎ取られ、たちまちみんなの胃袋に納まっていきました。 思いついてカメラを構えた時には、ほとんど食べられたあと。その後も薪ストーブを囲みながら宴は続き、仕事のこと、子供のこと、健康のことなど、未明にそれぞれが寝つくまで話題が途切れることがありませんでした。 工房の柱には、この20年余りの間の呑み会に来た、たくさんの大人や子供の身長がビッシリと書き込まれています。「うわっ、オレちっちぇえ。いくつの時だ?」「いやア、こんなに小さかった娘がママになってもう2人目だよ。」 大人の身長には変化も興味もありませんが、子供たちが一年ごとに大きくなるのを、たくさんの数字の中から見つけ出すのは感慨深いし、みんなが笑顔になれるものです。この工房の周辺で、おおぜいの子供達が四季折々の自然に溶け込んで過ごしてくれたことは、自分一人が