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9月19日

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「やったぞ、やった!安保関連法案はついに成立だ。憲法なんか変えなくたって、ちょっと頭を働かせて数字を使えばこの通り。わが陣営の議席数、200時間超の審議時間に60日ルール。もうこれで当分は答弁で冷や汗をかくこともないし、外で騒いでいるバカ共も少しは静かになるだろう。思えば春に米議会で約束を口にしてから5ヶ月間、判決文をねじ曲げ、学者や法曹界の違憲の意見を封殺し、根拠の無い危機感を煽り、テキトーに作った具体例を押し通し、苦労して党内や野党の反対勢力を押さえ込んだ甲斐があった。正しい決断は時間を掛けりゃいいってもんじゃない。いまこのタイミングでの一気呵成が成功のもとだ。これで正式に悲願だった米軍との軍事同盟が果たせたし、来週は大手を振ってアメリカ詣でが出来るってもんだ。」姑息で傲慢な、この国のトップとその取り巻きが、国際情勢の変化を理由に我が国のかたちを変えてしまった。 去年の暮れに小選挙区制度を生かして自民党が大量の議席を取った際の争点は消費税一色で、集団的自衛権などはまだ覆いが被せられた状態だったというのに、4月中頃から急に鎌首を持ち上げ始め、湧き上がる憲法違反の声を無視しながら、思惑

シゴト

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写真家であり映画監督であり獣医師であり文筆家でもある竹田津実さんは、長年の仕事の積み重ねでキタキツネの存在を身近なものとして定着させ、それまで「北海道といえばヒグマ」一辺倒だったイメージまでも変えてしまった。 そのキツネの先生が、おそらく一番やりたかった仕事としての写真集「AFRICA」をまた読み返した。そして、また仕事というものの本質を、ズンと突き付けられてしまった。 たくさんの著作があるなかで、この本だけは格別な思い入れがあるようで、「これはボクのワガママのかたまりなんですよ」と自嘲気味にその話題から引っ込めようとするとき、至福の笑みが顔面に出ることにおそらく本人は気付かれていない。 子供の頃からの憧憬だったアフリカに、「家が何軒も建つほどのお金を使ってしまいました」と言いながら30回も通い詰め、自分なりの句切りとしてして平凡社から出版されたこの写真集。 自分でも法外なと言う1万円という価格で、他人の評価も採算も気持ちいいほど全く無視。アフリカを掴もうとする画像や文ではなく、かの大陸に身を置くことの満足感に溢れたこの本を読み終わって閉じるとき、竹田津さんの幸福感が乗り移る。 外部

夏のミポ◯ン

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中山美穂が若い頃だったから、同じ名前の彼女もミポリンと呼ばれていた。もうそんな呼ばれ方をする歳でもないだろうし、もしかしたら本人も快くは思っていないかも知れないが、たまに会ってもついついそう呼んでしまう。 20年近くまえ、冬にスキーのインストラクターをしている仲間が、カヤックに乗ってみたいという大学を出たての彼女を連れて来たのが最初の出会いだった。何度かハードな海で揉まれ男たちに教えを乞ううちに、自艇を持って彼女なりのスキルを身に着けてしまう。 さもありなん。その頃の彼女は毎年のように北海道代表で国体に出場する女子バスケットボールの選手だったし、冬は冬でスキーのイントラをやりながら選手を目指し、夏には時間を作って南半球まで練習に出かけるほどの入れ込みようだった。 以来、根っからのアスリートたる、娘のような彼女をずっと見て来た。 スキーでは基礎技術の選手として全国大会にも行ったし、シーカヤックでも新谷暁生氏のサポートとして知床エクスペデイションや積丹ツアーに度々加わって実力を身に着けた。しかも、1日も無駄にしない勢いで、遺跡調査、実家の仕事、ゴルフのキャディー、除雪機メーカー、ススキノで

シリアルナンバー

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いつもの顔ぶれに、しばらくぶりの仲間、それに懐かし〜い人も交えて、真夏の積丹の海を漕ぎました。 出艇前の砂浜に並んだカラフルなカヤックの数々。ファルトの1艇を除いた全ての艇がノーライト、つまり私が作ったシーカヤックでした。 ごく最近作ったものは覚えているのですが、よほど印象に残るカラーリングは別として、情けないことに数年を経た艇は記憶も曖昧になってきます。こんな時はそれとなくカヤックの後ろ側に回り込み、小さく刻まれた文字を探します。 「ああ、こいつはもう13年も経つんだ。これを積層(製作)した時も暑かったよな。」 「ウオ! おまえは25年も前か。それだもの色だって褪せるはずだ。他にわるいところは無いか?」平成元年にある人に薦められて始めたシリアルナンバー。今ではルーターを使って数秒でおしまいですが、初めの頃は時間を掛けてテンプレートを鉄筆でなぞったものでした。 アルファベットと数字を並べただけの、とくべつ意味も無さそうな文字列ですが、たった10文字余りのその記号がたくさんの記憶を蘇らせてくれるのです。

生者必滅とは言うけれど

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親しくしてくれていた、秀岳荘の工場長が亡くなった。 69才。脳梗塞だそうだ。 創業家金井一族の末子として、高卒後は東京の山岳テント店に修行に入り、爾来半世紀に亘って山道具の変化と進歩に関わって来た人だった。 お互い得意分野は違ってももの作りの先輩であり、歳は上だが戦友のような関係でもあったような気がする。 四半世紀前から、こちらが作る犬ぞりに合わせたドッグバッグを縫ってもらったし、パタゴニア遠征用の特注テント、南極用ソリのカバーなど想い返すときりが無い。 20年前には「自分でも使えるしょ」と工業用ミシンもくれたし、つい先日もイベント用の筏に取付ける帆のようなものを縫製してくれたばかりだった。たいして金にもならない難題を持ち込む度に、ちょっとはにかんだような顔で「わかった。やっちゃる」と一言。そして約束には必ず間に合わせてくれた。 おせじにも接客が上手かったとは言えないし、おそらく金もうけにも疎かったに違いないが、秀岳荘という全国的にも稀な工場を併設した山岳用品店は、この人の存在を抜きにしては語れない。持ち込まれた30年以上も前のザックの金具の修理を、面倒くさそうに引き寄せて始めるとき、