今日が北海道新幹線の開業日だということは、ずいぶん前から伝わってきていた。 歴史的なイベントとして、だんだんとうねりは大きくなり、このところの盛り上がり様はとまどうばかり。そしてその大波が今日、函館の地にくずおれ覆い被さった。今日の新聞各紙はまるで元旦だ。特集、協賛、広告、便乗チラシでずっしり重い。東京まで4時間以上もかかる上に飛行機よりも高い乗車賃などと突き放すつもりは毛頭無い。鉄道マンをはじめ、多くの道民の悲願として、北の地から南に向けた顔のその先にずっと光り続けてきたことを知っている。ずっとむかし、40年以上もむかし、はるかに若かった頃、青函トンネルの工事に加わり地中奥深くで汗していたことがある。炭坑夫のようにヘッドランプと飯盒の弁当を持ち、金網のエレベーターに乗って竪坑を下りる。それまでに長い間かかって掘り進められた作業用のトンネルの、暗闇の支配するその先へ向って、人車(ジンシャ)と呼ばれるトロッコが進んで行く。 海面下140M、さらに地底100Mの空間は、猛烈な湿度と冬でも30度を超す地熱で蒸し風呂のような世界だった。コンクリートで固められながらゆっくり進んでくる本坑の前方に
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春は遠のき
満開の河津桜がニュース画面に満ちていたのはもうひと月も前になるでしょうか。この特異な品種の桜を各メデイアがこぞって取り上げるのは、話題性こそがいのちのニュース番組としては仕方のないことではあります。 しかし今日のニュースでは、本物の桜前線が東京に達し、皇居の乾門の桜を見物する人達の静かな歩みが流されていました。やわらかな春が本州方面を浸しているようです。何気なく視線を表に向けると、これが今日の工房の景色。除雪機を出そうか思案を強いられる15cmの湿り雪。大雪ではないのですが、このところ毎日の降雪です。毎年のことではあるのです。よ〜く分かってはいるのですが、それでもやっぱり春待つ心はじれったい。往きつ戻りつの春の気配は、まるで思わせぶりなオンナの流し目のようです。
となりの灯り
工房の東側にスキー場があります。 現在の名称はFu's(フッズ)スキーエリアですが、以前は国設藤野スキー場と呼ばれ、札幌オリンピックを覚えている世代には、スキー場としてよりもリュージュやトボガンのコースとしての方が知られているでしょう。石狩川から分かれた豊平川、そのまた支流の簾舞川が流れる大きな沢地形をはさみ、直線距離で2km以上もあるでしょうか。 それでもリフトの支柱に取付けられたスピーカーからのアナウンスが風に乗って聞こえますし、夜になるとこの通り、ライトアップでその存在をひときわ主張しはじめます。 よく晴れた夜は放たれた灯りは天空に向って吸い込まれていきますが、厚い雲に覆われたような日、それも雪を降らせるような雲でなく、空の一定の高さで下界と天上を遮るような時には、雲に跳ね返された光が地表に向って降り掛かってきます。いつもは全く明かりのない工房の周辺でも、周囲の雪明かりと相まって新聞すら読めるほどの明るさにびっくりです。少雪で過ごして来たこの冬ですが、先月のうるう日(29日)を挟んで数年に一度という暴風雪に見舞われ、この後に暖気がきたとしても、予定通り3月末までナイター営業でき
腰痛
「ウッ!」と、おもわず声が洩れ、そいつはいつも突然現れる。 たいていの場合、踏んばって重い物を抱え上げるような力む体勢ではなく、何気なく腰を屈めて下がりきる直前くらいに、5番目の腰椎あたりから脳髄に向って傷みが駆け上がる。激痛というほどではないのだが、その傷みが我が体幹を支配し、立ち上がろうとする意思を許さない。 「うわア、来たよ。来ちゃったよ!」と、心の中で叫びつつも、この時の自分は情けない。おそらく半分くらいは引きつった笑い顔で、アヘアヘとしゃがみ込み、のろのろと力なく手を伸ばして何か掴まるものを探す。ギックリ腰、椎間板ヘルニア、座骨神経痛、医学的には少しずつ使い方が違うが、まあ要は立てなくなるほどの腰の痛みで共通する。最初にこいつに襲いかかられたのは、二十代の頃だ。熔接で使う酸素が入った100キロのボンベを担いで歩いている時。今でも妙にはっきり想い出す。いきなり腰のあたりに傷みが走って全身の力が抜け、肩の上の重さが身体を地面に押し付けた。悪いことに雨降りの最中で、押しつぶされた場所が小さな池ほどもある水たまりの中。わずか10センチの泥水だったが、溺れるのではないかと必死でボンベを
「二月の匂い」
手が覚えているような仕事を何気なくこなしている時、耳をすり抜けていくラジオの音にふと懐かしさを覚えて頭を上げた。 曲名も歌手名も、またそれがリスナーのリクエストによるものかさえも聞き逃したが、このやや低めの声は2年前に死んだ稲村一志さんの歌声だ。間違いない。聞こえているのは亡くなる前に録音した「二月の匂い」のようだ。どちらかというと小柄な身体だったが、太い声帯からバリトン歌手のような張りのある声で歌っていたあの頃の姿が蘇る。今は鬼籍に入った人の声を当時のまま耳にするのは、懐かしさとともにちょっぴり後ろめたさを覚えてしまう不思議な気分だ。フォーク全盛の時代に学生でデビユーし、ロックやブルースのなかで生きてきた稲村さん。カントリーが気になったのかそれともプレスリーだったのか聞き漏らしたが、一人旅でテネシーのメンフィスを訪ねたことがあったともいう。ウエスタンハットとあご髭がトレードマークだった。ちょうど2年前の暮れから正月にかけて、山の中のスタジオでラストアルバムになった「Birthday Suite」を録音しながら、誰にも知られずひとり旅立ったという稲村さん。「残す財産とてなく、言葉にすれ