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「二月の匂い」

手が覚えているような仕事を何気なくこなしている時、耳をすり抜けていくラジオの音にふと懐かしさを覚えて頭を上げた。
曲名も歌手名も、またそれがリスナーのリクエストによるものかさえも聞き逃したが、このやや低めの声は2年前に死んだ稲村一志さんの歌声だ。間違いない。聞こえているのは亡くなる前に録音した「二月の匂い」のようだ。

どちらかというと小柄な身体だったが、太い声帯からバリトン歌手のような張りのある声で歌っていたあの頃の姿が蘇る。今は鬼籍に入った人の声を当時のまま耳にするのは、懐かしさとともにちょっぴり後ろめたさを覚えてしまう不思議な気分だ。

フォーク全盛の時代に学生でデビユーし、ロックやブルースのなかで生きてきた稲村さん。カントリーが気になったのかそれともプレスリーだったのか聞き漏らしたが、一人旅でテネシーのメンフィスを訪ねたことがあったともいう。ウエスタンハットとあご髭がトレードマークだった。

ちょうど2年前の暮れから正月にかけて、山の中のスタジオでラストアルバムになった「Birthday Suite」を録音しながら、誰にも知られずひとり旅立ったという稲村さん。

「残す財産とてなく、言葉にすれば『ありがとう、さようなら』以外に無いとすれば、遺言というには淋しすぎる。45年を歌うたいとしてして生きてきた身として、遺すとすれば遺歌だろう」そう書き遺しながらレコーディングを続けていたそうだ。

脳梗塞だったというが、その最後のいっときは何を想っていたのだろう。口元をすこし歪めながらはにかむように笑う穏やかな顔が網膜に蘇る。
静かに深いところへ落ちて行く自分の姿を見送りながら、ふりかえってやっぱり言ったと思う。艶のある低い声で、「ありがとう、さようなら」と。

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