九州鹿児島は桜島を挟んだ西側の薩摩半島南端、指宿から薩摩半島を回り込んで西に向うと、やがて富士山よりも端正と云われる開聞岳が左手に立ち上がる。その姿が見えなくなるころ北へハンドルを切ると頴娃(えい)町へと入り、道路の両側は見事な茶畑が続く。これが有名な知覧茶か。同じ茶の木なのに、茶どころ静岡のみどりよりもこころなしか力強い感じがするのは南に位置するせいだろうか。
さらに進むと案内板が行く手に知覧町を示す。
町界をこえて知覧に入ると、道路の両側の歩道を仕切る植え込みに等間隔で延々と並ぶ石灯籠。神社の参道のような厳かなるべき道をクルマに乗ったまま走る違和感をこのとき覚えたのだが、納得できるまでそう時間が掛かった訳ではない。
知覧特攻平和会館の案内標識でたどり着いた広い駐車場は、想像を超える台数のバスや車両で混雑し、警備員の笛の音が歩行者を急かせていた。
ほとんど予備知識を持ち合わせないまま訪れたのだが、なんとなく無言の見学者と止まったような時間をイメージしていただけに、たくさんの外国人を含むこれほど多くの入場者の喧噪には圧倒されそうで思わずたじろいだ。
カミカゼの名で世界に知られる陸軍航空隊特別攻撃隊は、戦争末期、沖縄を占領した米艦隊に爆弾を抱いて体当たりするため、この地の粗末な飛行場から片道分の燃料だけを給油して飛び立った。
多くが17歳から20歳代前半の若者だったというのに、しかも明日の死を覚悟した彼等が残して逝った遺書・日記・手紙などの、なんと潔く清々しく優しさに満ちていることか。
「いやあ、洗脳ってほんと怖いですよねエ、無駄だったんですから」と、団体を引率している年配の男性が説明するのが聞こえたが、全てを覚悟した人間の心の深さ重さ美しさに想い至らない輩に連れまわされたくはないものだ。
知覧飛行場を離陸してまずは南の開聞岳を目指し、通過しながら無言のまま親兄弟とこの国に別れを告げた後、2時間余り洋上を飛んで覚悟の突入をした戦闘機の若者の数は1036人。
道路脇に立ち並ぶ石灯籠は冥福を祈って建てられたその数だという。浄財はいまだに集まり続け、現在その数を超えること数百基ながらさらに増え続けているそうだ。
隊員一人一人の年齢や出身地、母や兄弟に宛てた遺書、決死の覚悟や親への感謝を認めたノートなど、若年さを感じさせない達筆な墨書から心中を推し量ると、こみ上げ溢れようとする涙を禁じ得ない。
この日は指宿の南隣の山川港からフェリーに乗り、錦江湾を横断してもう一方の大隅半島に向うつもりだったので、あまり時間が取れずじっくり見学できなかったのが返す返すも残念だ。もし再びこの地を訪れることがあるとしたら、必ずまる一日をこの場所に当てようと、町を離れながら密かに誓った。