師走に入ってからのこの空白の3週間、振り返ればバタバタと毎日を過ごしながら、いたずらに日かずだけを費やしてきたような気がします。書き留めておきたい色んな事が、不快な臭いだけ残して体の傍をすり抜けて行きました。安倍君がどうしても欲しかった特定秘密保護法案は、参院に送られたあと形だけの審議で問答無用の成立。「今のボクにはこのくらいの強引さは許されるのだ」とでも言いたげです。確かに、その思い上がりを押さえつける力もたしなめる人も今のこの国には見当たりません。それにしてもです。もう少し品位のある運営なり、法案の完成度を高めるなりのセンスは期待できないものでしょうか。このドサクサに隠れるように、経済産業省から原発再稼働を軸とするこれからのエネルギー計画が発表されました。国民的な議論を避け、前政権時にいやしくも国として決めた方針を無視しての狼藉です。また安倍政権は検証も無しにこれを承認しました。そしてやっぱり猪瀬さんは都知事を辞職です。百条委員会が設置となれば、必ず火の粉が降りかかってくる石原慎太郎前知事をはじめとする、陰のパワーに引導を渡されてしまいました。道路公団や東京電力に対する理路整然たる
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秘密のレシピ
全員が反対の公聴会を無視して、翌日には特定秘密保護法案が衆院で強行採決された。「時間を掛けるのは得策じゃない。国民に反対意識が高まらないうちに、この勢いのまま参院も一気に突破だ。<数の横暴>だって?野党もメディアも勝手に吠えてろ!これが<決められる政治>ってもんなんだ。」 「先週、猪瀬東京都知事が5千万円の選挙資金で、ドギマギと子供のようなウソの上塗りで楽しませてくれているそのさなか、ドサクサに紛れて旨いこと日本版NSC設置が可決されたじゃないか。特定秘密法案はこれとセットなんだから、何としても成立させなきゃならないんだ。」愛国少年の安倍晋三君としては、半信半疑だったデフレ脱却が夏を前にしてうまく軌道に乗ったと見るや、前政権時に続きもういちど憲法改正を持ち出してみた。しかしやっぱりこの国の護憲勢力にまともに立ち向かっても勝ち目が無い。それではと、憲法を変えやすくするために96条をと思ったが、これも参院選を前にして引っ込めざるを得なかった。タイミングとしては今しかない。うるさい奴らをシャットアウトするにはこの法案が絶対に欲しいのだろう。アメリカ様の方を向いたままの安倍くんにとって、国民の
ぽっぽ屋
「そんなことにはならないぞ!」 滅多に聞くことはなかったが、今は亡き義父が使う 『俺は認めないし、そんなことは社会が許さない』 というニュアンスの最上級の否定語だった。 戦時中に鉄道省車掌見習いを拝命。助役試験などの企業内資格を努力で突破し、レッドパージの時代や国鉄の分割民営化の混沌を歩き通し、留萌の駅長で勤めを終えてからも、NHKの朝ドラ<すずらん>の駅務アドバイザーを依頼されるなど、国鉄マンとしての一生を貫いた人だった。学歴ではなく、人望を高く評価されたうえでの謂わばたたき上げの管理職だったからか、組合との交渉や部下達との関係でも決して相手を頭から否定することはなく、常識を欠いてなお意地を張り通すような相手にのみ、最後に発する一言が冒頭の言葉だった。車輌火災、脱線事故、データ改ざん、証拠隠滅と、次から次へと組織のズダボロ状態が明るみに引き出され、経営トップが国会に参考人招致されるような昨今のJR北海道のていたらくを、もし亡父がみたらと思うと、先の言葉「そういうことにはならないぞ!」が聞こえて来る気がする。国鉄民営化時の混乱に世代の欠落があるとしても、機関区、保線区、車掌区、運転区、
オットットット!
安倍さんの歩みはこのところますます前傾姿勢を強め、今にもつんのめるんじゃないかとさえ見えてくる。まだ一年すら経っていないのだが、口にこそ出さないものの、政権に復帰したときからやりたいことは決まっていたようだ。まずは<デフレ脱却・経済再生>をスローガンにし、日銀までも動かして大胆な財政出動と通貨操作。後先考えるよりもイチかバチかの見切り発車。長い沈滞のトンネルに辟易していた国民がヤケッパチで踊り始めると、思いのほか好転したムードに、自分でアベノミクスを口にしながら、神輿の上に乗って成長戦略の旗を振り始めた。 支持率は高いし敵もいない。この勢いに乗って、増税前の今ならやりたかったことができる。『手始めはTPPへの参加。抵抗もそれなりにあったが、これはまぁうまくいった。みんなあっさりあきらめて、今では損得勘定花ざかり。正面から反対する者はもういない。 次に原発の再稼働と東電の救済。このところの小泉さんの言動は無視できないものの、世界に向けては「コントロールされている」と言っておいたし、日立・東芝・三菱と一緒にあちこち原発の売り込みもやった。 それから集団的自衛権の行使だ。これもまあ、解釈次第
秋の音
ルルにあまえる子ギツネのすがたを最後に見かけたのは先月のことでした。 深まる秋の午後、山に沈もうとする太陽の柔らかい暖かさの中で、この後に訪れるせつない別離の予感はあったのでしょうか。 毎年のことながら、闇夜の山中に響く子ギツネの血の混じった泣き声は、聞く者の心に傷みや哀しみを共鳴させます。 『心を鬼にして』とはよく言いますが、親ギツネだって闇の中でさらに身を縮めるようにして、耳に纏わりつくようなこの叫びに耐えているに違いないのです。山を覆っていた幾千億の木の葉たちが、いさぎよく梢を離れて土に還り、空の明るさが山肌にまで届くようになりました。木々の間の乾いた空気は、枯葉を踏むエゾリスの足音や、アカゲラのドラミングを、夏よりはずっと澄んだ音で耳の奥まで伝えてくれます。ピーーーーーユゥーー!と、突然の大きな牡鹿の声。ハッとするほど近くに聞こえました。 透明感のある秋の冷えた大気とその空間には、他の季節にはない小さな楽しみもあるのです。