仕事を終えて自宅に帰ると、思いがけない人からの荷物が届いていた。
鳥取のO氏からの贈り物は、この季節だからこその二十世紀梨、しかも3Lの秀品。緩衝材でやさしく包まれたその実からは、ナイフを入れなくてもみずみずしさが想像できる。
Oさんと初めて会ったのはもう10年以上も前のこと。
Reylaで日本一周中のOさんから修理依頼の電話が入った。浜益の手前、毘沙別の海岸でテン泊しているとのこと。すぐに出かけてなんとか合流はできたが、とても砂浜の上で修理は出来ない。テントを張ったままにし、本人とカヤックを乗せて札幌のわが工房まで戻ってきた。いま想い返せば唐突かつ強引なこちらの申し出に、拉致されるようで不安だったかもしれない。
ボトムの修理をしながら、Oさんにはたぶん2日か3日を工房裏の小屋で寝泊まりしてもらったと思う。
この旅に出る前には、何年もかけて世界中を放浪していたという彼の話は興味深く、詳細には覚えていないが、サンチャゴの北にあるバルパライソの安宿の話は、そのあたりを知っていたこともあってずいぶん近しく感じたものだ。
『深夜まで呑んで、貝殻節を弘中さんにつられて唸った夜は旅に出てよかったと・・』と、同梱の手紙にしたためられていたが、鳥取県人をつかまえて郷土民謡の貝殻節を唱和させるせるような失礼があったのは今更ながら恥ずかしい。
彼とはその後、十勝川河口の大津港で再会することになる。その頃、ちょうど北海道を反時計回りで一周中の、今は亡きローリー・イネステイラーと梅田カメラマンが襟裳から漕ぎ進む情報が入り、一緒に漕ぐ為に十勝へ出かけることにしたのだ。Oさんに連絡を取ると、知床から根室を廻って太平洋に出たとのこと。もし上手くいけば大津港で・・と半信半疑だったのだが、それが予定した日に文字通り上手くいったのだ。もちろんローリーと梅ちゃん、Oさん、それに私を含む札幌から出かけた3人の計6名は、当然ながら時間を忘れて砂浜で呑み続けた。
翌日、彼は一人でその浜から我々とアザラシに見おくられて西へ向かい、そのあと我々は反対の東へ。
彼を見たのはそれが最後だが、時々電話して本州太平洋側を南下する旅の様子を聞き、翌年、彼からかかってきた電話で出発地の鳥取に着いたことを知った。
おびただしい日かずを暮らしてきた中で、ほんの数日間のふれあいではあったが、忘れられない友人の一人に数えたい。
Oさん、おいしい梨をありがとう。また会える日があるとうれしいですね。