150年以上も前、蝦夷地が未だ北海道になりきっていない頃、文明から遠く離れた日本海の浜辺に、これほど人間たちの昂りがあったとは・・。
留萌の北、小平町にある花田家番屋を見学して改めて想った。
毎年春の海岸に訪れるニシン漁がもたらした富と狂乱は、道南から道北にかけての日本海沿い各地に番屋と呼ばれる拠点を残し、そしてある時期を境に歴史の中に消えてしまった。
あちこちで類似の番屋を見たが、この花田番屋はかなり大きいもののようだ。
この広い板の間は、ワゲシ(若い衆)やヤンシュ(雇い衆)と呼ばれた使用人たちが寝起きしていたという。
3カ所に設えられた、およそ3畳ほどもありそうな大きな炉の周りでは、多い時で5百人もが入れ替わり立ち替わり飯を食い酒をあおって、その群来の日が訪れるのを待ったという。
この大広間とは炊事のための土間を挟んで反対側、こちらは全く異質な空間が奥まで続くが、それは網元とその家族の住まいだそうだ。中庭を囲むたくさんの部屋や廊下には畳が敷き込まれ、床の間や調度品には金箔がちりばめられる。
経営者である網元の取り分は出来高の9割で、残りの1割を全使用人で分配したという。
当時の軍人には1日6合の飯が当たったというが、ニシン番屋では一人一日7合の米を食わせたそうだ。その食費や酒、旅費や支度金、それに船や漁具、さらに船着き場や番屋の建設まで全て資本家である網元が負担したとしても、富の偏在は否定しようがない。
「もしも世界が100人の村だったら、1人のお金持ちが残りの99人を会わせたよりも裕福です。」 そんな話が思い浮かんだ。